宇治茶は日本茶の歴史
宇治茶の起源
現在では、言うまでもなく日本茶の高級産地ブランドとして知られる宇治茶ですが、起源は非常に古い時代にさかのぼります。
1191年、栄西によって中国から日本に、茶種と共に宋の時代の抹茶法が伝えられました。
栄西は、京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の種子を贈り、明恵上人が栂尾に植えたのが栂尾茶の始まりであり、その後、明恵上人が宇治に茶をまいたのが、宇治茶の始まりと伝えられています。
宇治茶は、14世紀末ごろまでは、栂尾の茶を本茶と呼ぶのに対し「非茶」と呼ばれていましたが、宇治七銘園が拓かれたことで宇治が日本一の茶産地となり、「本茶」の地位を固めました。
近世・近代における宇治茶
江戸時代に入り、幕府が使用する宇治茶は、毎年幕臣によって宇治から江戸城まで運搬されていました。
この幕臣を「宇治採茶使」と呼び、俗に「御茶壷街道」と呼ばれるようになりました。
1738年に、宇治田原湯谷の永谷宋円によって現在の煎茶製法が作り出されました。
その後、この製法が全国に普及し、明治29年頃には高林謙三によって製茶機械が開発され、機械による製茶が行われるようになりました。
当初は機械の性能も大変悪く、中揉までは機械で、その後は手揉製法を使用して製茶を行っていました。
しかし、手揉製法によって生じる重労働、人件費の高騰と機械の大幅な改良によって、機械による製茶が主流となり、手揉製法は衰退していったのです。
宇治茶の現在
明治初期、宇治市・京都市周辺には、京都府の約半分の面積に当たる1300ヘクタールもの茶園がありましたが、時代の経過とともに減少し、現在では100ヘクタールを下回っています。
しかしながら、生産者や茶商工業者のたゆまぬ努力により、現在においても宇治茶の品質は日本一の座を保ち続けています。